世界に誇るフランスの食文化に欠かせない、主食のパン。フランス人が「世界一」と自負する多種多様なフランスのパンの中で、フランスのパン文化を象徴する存在として、2022年3月、ユネスコ世界遺産の無形文化遺産の候補として「バゲット」が選ばれました。今回はフランスパンの代表、バゲットについてご紹介します。
フランスパン=バゲット?
日本では、フランス発祥の細長いハード系パンを総称して「フランスパン」と呼んでいます。「バゲット(baguette)」は数あるフランスパンの一種。フランスでは20世紀の初めにパンの定義を決めようという動きがあり、その後、栄養と食糧に関する協同研究センター(CNERNA)が主導して、最大級の専門家会議で議論と検討を重ね、1977年に「フランスのパンに関する規則集」を発表しました。この定義は今日でも通用するものとなっています。
ただの「パン」という言葉は、パン用の小麦粉を混ぜたものをこねて作った生地を焼いた食品、さらに飲料水、調理用の塩、発酵剤という公式に認められた成分に適合したもののみに用いられる。
以上の材料を混ぜたものには、場合によって、いくつかの補助剤と添加物が含まれるが、その使用は市販のパンの製造において認められた量に限られる。
もちろんバゲットも、原材料は専用小麦粉、水、イースト、塩のみというシンプルさ。バターや卵、牛乳、砂糖などは使用しません。日本人はふわふわ食感のパンを好む人が多く、バゲットよりも太くて短く、中身がバゲットよりもやわらかい「バタール」も「フランスパン」として人気ですが、フランスではやはりバゲットが主役。毎年春にはパリでバゲットコンクールが開催され、優勝者にはフランス大統領官邸のエリゼ宮に1年間バゲットを納める栄誉が与えられます。バゲットは数あるフランスパンの中でも特別な存在なのです。
ちなみに、日本で使われている「パン」という言葉はフランス語の「パン(pain)」から来ているように思われますが、実際はポルトガル語の「パオン/パウン(pão)」。戦国時代にポルトガル人宣教師によって伝えられたことが由来といわれています。
おいしいバゲットとは?
「パン」の定義とともに、「よいパン」についても長い時間をかけて議論されてきました。
「きれいなパンがいつもよいパンとは限らない」という指摘もありつつ、最初の視覚情報が味への期待感や食欲をかきたてることから、パンの質を示す一つの指標となっています。
たとえば「よいバゲット」とされる一つの型として以下のようなものがあります。
・外観…まっすぐで形が整っている
・皮…こんがりとしたキツネ色で、表面はなめらか。気泡でボコボコしていない。薄くパリッとしている。
・ナイフの切れ目…職人の器用さを示すもの。割れ目はどれも同じ長さで、上部に「耳」と呼ばれる一定の稜線を描いている。
・中身…クリーム色(天然酵母の場合は、もっと浅黒くなる)。不揃いの気泡があり、気泡の壁は薄く、真珠のような光沢がある。しっとりとして、程よい弾力がある。噛み心地がよく、ねばつかず、噛むたびに味が出る。
パンの風味はワインのように詩的に評されるようにもなり、食にこだわるフランス人はパンについても一家言ある人が多いようですね。バゲット選びの一つの目安にしてみてください。
意外と新しいバゲットの歴史
数千年もさかのぼるパンの長い歴史の中では、ごく最近登場したのがバゲットです。その起源については3つの説が有力と言われています。
1805年から1815年の間に、ナポレオン軍のパン職人旅団がバゲットを発明。バゲットは従来の丸いパンに比べて軽くかさばらず、早く焼き上げることができ、兵士が持ち運びやすいようになったのではないかと推察されています。
1839年、ウィーンからやってきたアウグスト・ツァングというパン職人がパリにパン屋を開き、丸いパンが主流だったパリになかった楕円形のパンを作り、配達しやすくするためにより細長い形にしていったことがバゲットの原型になったと考えられているとか。
地下鉄建設のためにフランス各地から労働者が集まりましたが、労働者同士のケンカが頻発し、刃傷沙汰に発展することも増えました。そのころ食されていた田舎風の丸いパンを切るためのナイフを持ち歩く人が多かったのです。そこで、ナイフを持ち歩く必要がなくなるよう、エンジニアのフルジェンス・ビエンヴェニュがパン職人に手でちぎれるパンを作るよう依頼したのがきっかけという説です。
いずれも起源は19世紀のバゲットですが、大衆的に普及したのは戦後と言われています。フランスパンを代表するバゲットですが、歴史は意外と浅いのですね。
フランス人にとって特別な意味をもつパン
パンはフランス人にとって、昔も今も必要不可欠な食べ物というだけではない重要な意味を持ちます。多くのキリスト教徒にとって、パンは特別にありがたいもの。一般に、神の体や人間の体と同一視されていいて、イエス・キリストは“生けるパン”。イエスが「これは私の体である」とパンを指して言ったとき、彼は聖体の秘蹟を行うよう指示したと言います。「パンとぶどう酒」はキリスト教において神聖なものとして大きな意味を持っています。フランス語の日常語においても、「生命」と「パン」は同義でした。
また、フランスにはパンにまつわるさまざまな比喩表現が多数あります。
「先に白いパンを食べる」苦労する前に穏やかな日々を過ごすこと。
「自分の袋のパンを食べる」自己中心的であること。
「パンなしに一日過ごすようなもの」あることにうんざりすること。
「パンよりもバターの約束をする」空しい期待を抱かせること。
「窯の入れ方が悪いと、角のあるパンができる」最初にしくじると物事はうまく進まない。
パンの切り方にも、フランス人には儀式に近いような習慣があります。最も一般的なものとしては、ナイフの先でパンの上に十字を描くというもの。日本の「いただきます」と同様に、神への感謝を表すものなのでしょう。
フランス人にとって深い意味をもつパン文化の象徴である「バゲット」ですが、グルテンフリーの浸透などもあり、フランスでは消費量が年々減少傾向にあり、長時間労働となりやすい環境や工業化もあって「パン職人のいるパン店」も減少しているといいます。伝統のパン食文化、パン職人の技術を後世に継承することも世界文化遺産への申請理由の一つにあるそうです。一方、パン店が増えている日本では、本格的なバゲットを提供するお店も増えています。ぜひ自分だけのお気に入りバゲットを探してみてください。
(参考)
「パンの歴史--世界最高のフランスパンを求めて」スティーブン・L・カプラン著 吉田春美訳(河出書房新社)
「ル・コルドン・ブルーのフランスパン基礎ノート サブリナを夢見て3」ル・コルドン・ブルー東京校編(文化出版局)